2022/06/16
千手観音
5月の終わりのころ、“夢”と“鏡”という言葉を鍵にして、招かれるように足を運んだ場所。
矢車菊の野原を飛びかう白い蝶は花から生まれているかのごとく空中にあふれ、長い散策のあとにそこから去るとき、今度は黒い蝶たちが梢に飛びかっていた神秘的なその場所。
そこにあった樹々でできたトンネルはあちらとこちらを繋ぐ橋のようで、このトンネルを渡るためにここに来たのかもしれないと感じたこと。
とても不思議な気持ちで頭上を仰げば、光がこぼれ落ちていくつもの色を交差させていたこと。――虹。
ふと、「千手観音」という言葉がおりてきた。わたしにはその樹が千手観音さまのお姿のように見え、そのときからなぜか、その名は思いがけないタイミングで受けとる手紙みたいに幾度もわたしの心に前触れもなく訪れるようになった。そのようにして訪れるものはいつも、なにかの知らせで予告だった。
そしてやはりそうだった、ということを感じるいくつかのこと。
自身の内に感じることを掬いとり、それにしたがって行動し、それでいながら行動を起こしたあとはその行動のゆくすえを自分の視野で限定したり修正したりすることなく、流れに身をまかせることを大切にしたい。
それがちいさなものであっても、それがささやかなものであるほどに、のちになって重要な意味をわたしの人生におよぼしてきた。自分にとっての喜びになることでも、都合が悪いことでも、どんなことでも。
はじまりはいつもささやかでちいさい。そのささやかなちいささに気づき、自身の内部から掬いとってあげることは時にむつかしいことでもある。ちいささ、ささやかさはよく見過ごされてしまう。けれども大事なことはちいさくてささやかなものに潜んでいることもまた、よく感じる。
そのようにして繋がり、巡るものがあることも。