2026/05/14

『福田尚代 あわいのほとり』展 at 神奈川県立近代美術館











 記録として残せないでいるうちに、遠い記憶になりつつある、けれどもそれでいて深く自分のなかに沁み込んでいる『あわいのほとり』のこと。


 はじまりから読んでもおわりから読んでも、おなじ言葉の路を辿る回文は、入口と出口がおなじ場所にあることを教えてくれる迷宮の往還のよう。


 一行だけが抜きとられた書物は翼のかたちに表紙の羽をひろげていた。


 とどまらぬ形を捉える視線、そそがれた時間の果てしなさ。


 「すくい」は掬いであり救い、と『ひとすくい』という題の作品にあらわされた泉を眺めながら、かわした会話を印象深く覚えている。


 そのときわたしは「水をすくう」ということについて想いを馳せつつ、北斗七星がひしゃくの形をしていることに発想を飛ばしていた。


 空のうえの“ひしゃく”から、あまねくものが受けとるために、降ってくるもの。


 そのおおきなひとつは水であり、でもほとんどは目では捉えられず、それに触れても気づかなければ「なかった」ことになるもの。


“泉”もそのひしゃくによってあらわれる神秘であるのかもしれないと思ったり。


 展示にご一緒した友人と後日あらためて展示作品の話になり、本展の『袖の泉』という作品をとおしても感じたことだけれど、全体的におおきな“喪失”というのも福田尚代というひとのテーマなのではないか、と友人の彼女との対話のなかで感じたことも追記のように綴っておく。


 『袖の泉』は刺繍作品で、いつか刺繍の作品をつくられるかたが、「刺繍などの縫う行為を用いた作品には傷を縫合する意味を含んで解釈されることがある」と記していた文章を見かけたことも連想的に想いだされた。


 「縫合すること」によって回復するもの。


 福田さんの言葉は読経や真言みたいなところも感じ、彼女の回文は「あちら側」に投げかけたものが「こちら側」にこだまとなってかえってくる「往きて還ってくる」――往還を感じるのだと、そういう話に。


 展示の余韻としてゆたかな対話ができたことも、嬉しかったこと。