2024/04/01

4月、豊玉姫









 Luna Somniumの4月は、豊玉姫とのつながりを深めます。


 今月セッションをお受けくださるかたに施術させていただくエネルギーにはすべて、対面、遠隔問わず豊玉姫のエネルギーが副次的にふくまれます。


 豊玉姫は海神の娘で、その名にある「玉」は魂のことを意味し、豊かな魂の姫、霊力の豊かな持ち主、つまりは巫女であることを示しています。また、「豊か」とは美しさのこと、「玉」とは真珠のことであり、真珠のごとき美しい姫、と暗示されているともいわれています。わたしもいつからか、真珠を目にすると海の女神である豊玉姫を思うようになりました。


 この女神は地上から海に渡ってきた男神と恋をし、結ばれたのち、やがて故郷に戻った伴侶を追ってみずからも地上で暮らすことになり子を身籠りますが、出産にさいして夫に、「他界の者は子を生むとき、自分が生まれた世界の姿に戻るため、そのわたしを見ないでほしい」と頼みました。海の神の娘である彼女は、自身が愛する伴侶に自分の“ほんとう”の姿を見られたくなかった。


 夫は彼女の頼みを聞き、「見ない」と約束したものの、「見るな」と禁じられたその言葉が引き金となって誘導を生み、誓いを破ることになる、という流れと展開は、古今東西の枚挙にいとまがないように、豊玉姫の伴侶もまた、「見ない」という約束を反故にして、「子を生むときに本来の姿に戻る」という彼女の、“真実の姿”を密かに覗き見てしまいます。


 豊玉姫の“真実の姿”は、八尋和邇(ヤヒロワニ)という深海の生き物であったといわれており、その姿を夫に見られたことを知った彼女はそれを恥じ、伴侶と生まれたばかりの子を残して海へと還っていったということです。


 みずからの「醜」を見られたために(あるいはそれを見られないようにと望むがために)、愛するひとのもとから永遠に去ってゆく女、というイメージは伊邪那岐命(イザナギノミコト)と伊邪那美命(イザナミノミコト)の黄泉比良坂からはじまって、美と醜が象徴的に語られた磐長姫(イワナガヒメ)と木花之佐久夜毘売(コノハナノサクヤヒメ)の姉妹譚も、そしてその木花之佐久夜毘売の息子を伴侶とした豊玉姫の神話も、結局はおなじこと、共通のひとつのこと、「“醜”を見られたがために去っていった女」がテーマになっているように感じます。


 そののち日本の物語や民話のなか、竹取物語や夕鶴や雪女のなかにもおなじテーマは繰り返し紡がれ、王朝文学においても引き継がれて、この国の「物語」をものがたるとき、それは呼吸のように息づいている系譜ともいえることを、わたしは昔から思ったりします。そしてだからそれは、この国の女性のなかに宿るひとつの主題であるともいえるのかもしれないと。


 浦島太郎という昔話で描かれる竜宮城の乙姫は、この豊玉姫がモデルであるといわれたりします。もともと乙姫は浦島太郎が助けた亀が化身した姿で、乙姫の“真実の姿”は亀であった、という話もあり、これも“異類”である女の悲恋物語としての側面を秘めているといえるのかもしれません。


 “異類”とは、わたしたちが自分のなかにあると思っている“醜”のことでもあるのだと思います。


 絶対に知られたくない、そういうものが自身のなかにあることを愛するひとに知られた(見られた)とき、拒絶の力によって去っていった彼女たち自身のなかにこそ、みずからの“醜さ”がゆるせないという気持ちがあった。


 しかし誰もがもつ“醜”のなかにこそ、“美”に反転されるものが秘められ、隠されているのだと、豊玉姫はつたえてきます。


 自身のなかにあるその“醜”を、みずからがゆるせていないとき、わたしたちの対人関係、とりわけもっとも重要な関係にも影を落とすことがあるのだと。


 自分が自分をゆるせず、内部にあるものを拒絶しているとき、自分を取りまく関係もその“拒絶”の反転があらわれることがある、と。


 わたしたちは親密な相手には「自分のすべてを受けいれてほしい」という願望をもっています。


 そして最初からそれが不可能であるという諦めを無意識にでももっているとき、“拒絶”によって親密な関係そのものを自身の人生に招き寄せないようにしている、ということは多いです。自分ではそうとは知らずに、それをしているのです。


 けれどもその“醜”は、誰かによって“受けいれられた”からといって溶けるものではなく、自分が自分と和解することによってのみ昇華させることのできるものです。


 そしてそのとき、わたしたちが“醜”と闇だと思ってきたものは“美”と光の一部であったことを知ります。


 影のない者は太陽の下にはいない。生きているからこそ影はかたちをつくる。


 だからこそ「美しい真珠の姫」である豊玉姫は、わたしたちがわたしたち自身の“醜”であると思うものに光をあててくれます。癒し、とはそれまで見えなかった部分に光をあてることでもあります。


 彼女が縁結びの女神であるのも、わたしたちがわたしたち自身と“和解”することで、自身の“外”との関係も良好に、円満につながってゆくものだから。


 豊玉姫はわたしたちがわたしたち自身であるほどに、豊かさや美しさとのつながりを深めてゆくことを教えてくれ、そのための自信、勇気、そして“巫女”としての力――わたしたちがよりわたしたち自身と“つながる”力をあたえてくれる女神です。





 余談ですが、わたしは豊玉姫の像として人魚の絵を飾っています。


 豊玉姫と人魚を結びつけて考えるひとはわたしだけではないようで、よく人魚の姿で描かれる豊玉姫を見ることがあります。


 アンデルセンの『人魚姫』では、自分の“真実”の姿を隠して人間となり、愛するひとに“受けいれられる”ことがなければ泡となって消えてしまう人魚の物語が綴られていますが、ここでも深海の王の姫である人魚姫は自身を“醜い”と思い、地上の人間の王子の“美しさ”に恋をして、人間になりたい(美しくなりたい)と望むのでした。自分自身を“拒絶”している彼女の物語は、王子との恋、という部分だけにフォーカスすれば悲恋に終わります。


 しかしこの物語は「自分は醜い」と思っていた人魚の姫が、みずからの醜と美を統合してゆく話でもあったのだと思います。


 拒絶から受容に、そして昇華されてゆくお話だったのだと。









 *4月、これからの予定*    


  4月29日(月・夜)* 今月のセッション(対面・遠隔)をお受けくださったかたへ、30分間の豊玉姫の一斉遠隔ヒーリング

 *該当されるかたには当日、個別にご連絡差しあげます。





 それではどなたさまも佳き4月をお過ごしになりますように。


 あなたがいつもあなたでありますように。




 *LOVE*