2024/08/31
観音の一斉遠隔ヒーリングのご報告
今月、Luna Somniumのセッションをお受けくださったかたへの観音の一斉遠隔ヒーリング、無事に終了しております。
この一斉遠隔のヒーリングはアメジストエレスチャルの石とともにおこなったのですが、観音のエネルギー、彼女の炎の色とおなじ色をしたこの石の色が、ヒーリングからはじまったその最初からヴィジョンのなかで揺らめき、それは聖なる火となって浄めがおこなわれていました。
この紫の炎はヒーリングが終わるまでずっと視えつづけていました。
今回のエネルギー伝達のキイワードとしては、“神聖”というふうに入ってきています。
観音の紫の炎はすべてのネガティヴティを燃やしつくしてくれる慈悲の光です。
そのネガティヴティとして、過去に傷ついたことが原因で現在の自身のなかで“閉ざして”しまっているもの。――健やかとはいえない感情的なやりとりや関係性のなかに置いてきてしまっているもの。
過去に執着している意識(「どうしてそのような経験をしなければいけなかったのか」という感情的傷が昇華されていないとき、つまりはそのことにみずからが納得できていないとき、わたしたちの意識はその過去に執着してしまうようになっているものなので)から現在へと自分自身を戻すために、負の感情とエネルギーを過去のその場所に置き去り、現在のなかにバランスを取り戻すための浄め。
そのようにして自分のなかのネガティヴティを浄めてゆくことは、自身のまわりに聖なる空間をつくりだすことでもあります。
それはエネルギー的にも物理的にも、守護、防御にもなるもの。
ヒーリングの途中で下半身のあたりに違和感を感じ、そのあたりにエネルギーが滞って“下”とつながるのを妨げている抵抗があったので、それがスムーズに流れるようにも働きかけました。
“下”とは大地のこと、地球のことであり、それはグラウディングとも呼ばれます。
わたしたちが大地とのつながりから隔てられているとき、この地球のなかに自分自身の“家”を見つけることが困難なのではないかという気持ちになることがあります。
“家”とはつまり、安全な場所、安らぎに満ちた場所、聖なる空間のことです。
わたしたちが肉体をもち、その肉体の領分である物質とともに安心して暮らすために、グラウディングは不可欠なものです。
今回のヒーリングはこららすべてにアプローチしたとありました。
このたびもありがとうございました。
よい9月を!
あなたがいつもあなたでありますように。
*LOVE*
2024/08/30
観音について② 水のようであること
観音のエネルギーとつながっているとき。
彼女(観音は男でもあり女でもある、男でもなく女でもない中性のなかにある存在ですが、わたしに働きかけてくるとき女神の姿をしているために、観音をあらわす言葉にわたしは“彼女”を使います)がもっとも強く「つたえたい」と思っていることは、リラックスのことであるようです。
「すべてのことを、ゆっくりと行いなさい」と彼女はいいます。
食べることも、湯船につかることも、書物を読むことも、歩くことだって、ゆっくりと。
慌ててやろう、急いで進もうとするとき生じる“焦り”は、自分を自分以外のものにしてしまうから。
しかしそのようにいえばかならず、「だけど」という反論があるでしょう、とも。そして「わたしにはやることがたくさんあるのです」とその声はいうでしょう。
「あれもしなければいけない、これもしなければいけない。生きてゆくためには“やらなければいけない”ことであふれているのに、どうしてゆっくりなんてできるでしょうか」
そのような声には「話は逆なのだ」と返すことができる、と観音はつたえてくる。
――“わたしにはすることがたくさんあるから、いつでもリラックスのなかにあるのです”――
――“することがたくさんあるからこそ、あれもしなければこれもしなければと、「しなければ」で自分をいっぱいにして過ごしていたら、その「しなければ」と思っていることの半分もできず、次にはその「できなかった」ということに圧し潰されてゆくでしょう”――
そのときそのひとを圧し潰すのは「焦り」
すること、したいことがたくさんあるほどに、焦りを自分のなかから遠ざけておく必要がある。急ぐほどに焦りはおおきくなり、それで誰もが自分自身を責めはじめる。そのような状態にあるときそのひとは、「聖なるタイミング」からは外れているので、真の自分自身からも逸れている、といえます。
真の自分自身から逸れている、ということは「聖なるフロー」のなかにもいない、ということになる。
flow(フロー)――流れ。
――“こんなにたくさんのことをしているわたしを、なぜわたしが責めたり批判することなどできるでしょうか。
わたしがわたしを責めたり批判したりして、自分に対する文句や不満でいっぱいにして自身に負荷をかけつづけることに時間を使うことを選ぶなら、わたしは「こんなにたくさん」のことをこなすことはできないのです”――
不満や批判で負荷をかけたり、不安や迷いで堂々巡りしているとき、フローはとまっています。とまったものは、停滞して澱みます。
そしてその停滞や澱みのなかには、「間違っている」という気持ちが隠されているかもしれません。
もっといえば、自分を責めたり批判して自身に負荷をかけることも、不安や迷いで堂々巡りすることも、「間違っている」「間違いたくない」という思いが隠されてはいないでしょうか。すべての「焦り」の根本は、そこにあるとはいえませんか。
「“ほんとうは”こうあるべきではないのに、この状況は“間違っている”。あるべきでないこの状態を、“正さないといけない”」
だからその状況に感情や行動で逆らったり抵抗したりして、“流れ”とはさかさまの方向にいこうとしたり、“流れ”ているほうにいきたくないと必死で留まったりすることもある。
そのようにして“流れ”を受けいれられないとき、抵抗したり留まったりすることに自分のエネルギーは使われているために、もちろんとても疲れてしまう。
負荷をかけることも堂々巡りもおなじように、自分の人生から自分の貴重なエネルギーを吸いあげている状態をつくりだしていることがあります。
観音のいう「リラックスのなかにある」ということは、起こったこと、起こっていることのすべては「正しい」ことであるのだということを受けいれてください、ということで、それがリラックスであるのだと彼女はつたえます。
わたしたちはそれがなかなかできなくて、自分自身が思う“正しさ”に自分や他者や状況や物事、あらゆることを「“修正”するにはどうしたらいいか」ということに思考や時間を長く使いがちですが、それがエネルギーのフローに抵抗し、自分で自分をその状態に留めている、ということを起こしていたりします。
それが必要なときもあるのでしょう。
でも、すべてが「計画どおり」とはかぎらない、ということ。
わたしたちが“正しさ”のなかに“修正”したいと思うとき、AのあとにBがあり、そのあとにCが、という順番に起こるから、AのあとにBにいかなければいけないと考えている。Bにむかわなければいけないのに、と考えつつぜんぜん異なるほうに運ばれている自分がいたら、Bに修正するためにはどうしたらいいかと考える。けれども「聖なるフロー」は、そのように目に見えてわかりやすくないことがほとんどです。
わたしたちはいつも「自分が“正しい”場所にいる」という確認のために、計画しているように物事が運ばれることを好みます。
でもこの計画とはわたしたちの頭のなかにあるものなので、「聖なるタイミング」とは異なることが多々ある。
そしてそれが認められずに、自分が“正しい”と思うほうに自身を修正していこうとして、フローから離れてゆく。
観音のつたえるリラックスとは、流れにまかせるということ。
聖なる規律があるのだということ。あるべき物はあるべき場所におさまるのだということ。それを信頼するということ。それがフロー。
――“だからリラックスしてフローをすべてそのまま受けいれてください”――
命の流れというものが、そのまま流れてゆくことを、ゆだねてまかせるのが、すべてのことのいちばんの近道なのだと。
そのためにこそ、彼女はよくいいます。
――“すべてのことを、ゆっくりと行いなさい”――
――“なにをそんなに急ぐことがあるの?
あなたがあなたの時間を味わうより、焦りに苛まれて疲弊することを上回る価値が、それにはあるというの?
急いでいるということは、はやく成し遂げたいということ。
疲労に全身がおおわれてしまったら、それは可能でしょうか?
そのときは可能だったとしても、その状態をずっとつづけられるでしょうか?
自分で自分を追いかけることに時間を費やしていたら、エネルギーはみるみると減ってゆく。
そしてその磨り減ったエネルギーの状態が自分自身の真の状態なのだと錯覚し、自分に対する信頼も失ってゆきます。
たくさんのことをしようとするなら、あなたの心も頭もからだも弛めて味わう時間をもたなければ、その半分もこなせない。
だからゆっくりと、人生を味わいなさい。フローにまかせて、あなたのエネルギーを自由にしてあげなさい”――
流れてゆく水のようであることを、彼女はいつでもわたしたちに教えてくれる、そのような存在です。
余談ですが、いつかの夏にひと目見たときから観音の存在を感じてお迎えしたアメジストエレスチャルの写真を記事の冒頭に載せました。
わたしにはこの石に育まれた紋様が、観音の遣いの白龍のように見えました。光の角度によって虹色に輝くので虹龍でもあるかもしれません。
紫の衣をまとって微笑む、美しい女神を感じます。
そして女神は笑いながらいう。
――“それでもなお、あなたが経験した出来事、置かれた状況が“ 「正しくない」と思うなら、自分自身に問いかけてみてください。”――
――“その出来事、そして状況は、あなたに「なにを教えてくれたのか」、「なにを教えてくれているのか」を。”――
***
2022/2/5記 加筆修正
2024/08/29
観音について① 赦し
夏はとても“境界線”が曖昧になりやすい季節であると思います。
日本の夏のお盆の時期はとくに彼岸と此岸の境目が曖昧になり、その薄くなり溶けた空間の作用が、エネルギー的にも、ひいては肉体(体調)、精神面に良くも悪くも影響をあたえていることを毎年感じています。
それはその期間の数日間だけでなく、それと前後する夏という季節全体にわたって関わってくるものでありますし、エネルギーや月齢などの影響を受けやすいかたはとくに自分自身を“護る”ことが大事な季節であるとも思っています。
だからわたし自身の個人としても、夏という季節をとおして毎年、観音とのつながりを深める、ということが生じているのかもしれません。
観音は男でもあり女でもある、女でもなく男でもない中性のなかにいる存在ですが、わたしは観音に「聖なる母」としての東洋の聖母の姿を視るので、「女神」と位置づけています。
観音は慈悲、慈愛、平和というものをあらわしている存在で、魂のもつありとあらゆる負――苦しみ、痛み、悲しみ、といったものの解放をうながしてくれます。
奥深くに埋め込まれた強い気持ち、それがたとえば恨みつらみだったり、怒りだったり自分でも認めたくない、直視したくないと感じているような感情を癒し、シフトしてゆくことも手助けしてくれます。
魂がとても重いカルマ的(この“カルマ”という言葉をわたしはあまり好みませんが、そうとしかいいようのないものもこの世にはあり、それを身をもって体験していますし、また自分以外のひとのなかにもそのようなものを視ること、感じることもあります。それが過去生から持ちこしてきたものなら現世で解消してほしいと“かつて”のわたしが願い、家系から受け継がれてきたものなら、それをわたしの代で終わらせることを望んでいるがために、わたし自身の課題としてあらわれたそれなのだろうと思っています。)な荷物をもっているときに、観音という存在はとても深くおおきな力を発揮して、そこに平穏をもたらすようアプローチしてくれます。
観音は世界中で助けをもとめる泣き声や叫び声を聞き、すべての悲嘆や苦しみといったものを感じて助けてくれる、いつも、いつでもそれをしてくれる慈悲の存在です。
この女神は彼女のもつ紫のエネルギー、アメジストの色、ラベンダーの色であるそのエネルギーで炎を放ち、わたしたちをすべてのネガティヴティから護ってくれます。
そしてわたしたちが自分自身の“赦し”とつながれるよう、うながしてくれます。
以前に観音が「赦し」についてつたえてきたことがあり、それは自分の“外”に苛立ちや嫌悪感、自分自身のネガティヴな気持ちを掻き立てるひとがいるとして、そのときは「このひともわたしとおなじ人なのだ。このひともわたしとおなじようにベストをつくしているのだ」とみずからに呪文を唱えるように唱えてみなさいとのことでした。
わたしがその事象、他者より上でも下でもなく「おなじ」であり、そしてそのひとのそのときできるベストをつくしている。
わたしの目にはそうは見えなかったとしても、「いまこの瞬間に生きている」だけでも、それはそのひとがそのひとのベストをつくしているからなしえることなのだと。
“ベスト”の上限はひとによって異なる。“受けとる器”がそうであるように。
だから自分の上限を「ベストの最大限」であるのだと固定して、それから外れた他者が「ベストをつくしていない」とするのはちいさな自我がくだしているジャッジであること。
また自分のベストを“外”からそのようにジャッジされたとしても、それは真実ではないこと。
あらゆるジャッジは“赦し”の欠如により生まれるのかもしれません。
「このひともわたしとおなじ人なのだ。このひともわたしとおなじようにベストをつくしているのだ」という言葉に抵抗や反感が生まれるなら、その裏側には「わたしはこんなに頑張っているのに、わたしと“おなじ”ように頑張っていない相手と“おなじ”だなんておかしい」という意識が働くからなのかもしれないから。
(あるいは反対に自分自身に対してとても厳しいひとは、わたしはひとの倍頑張らなければ“おなじ”にはなれないのだから、もっと頑張らなきゃ、もっと頑張りなさい、とみずからに鞭打ち、そうとは知らずに自身を虐めているということもあります。自身を“虐めている”から外の世界にも他者をとおして自分を苦しめる現象が起きたりすることもあるのですが、そのお話をはじめると長くなるので、今回は割愛。どちらにせよ、意識的無意識的に“赦し”をもとめているいうのはおなじことです。)
そのようなときにあらわれる抵抗や反感は、ただ自分が自分に「とても頑張っている」「ベスト以上のベストをつくしている」ということを認められたかったから生じる感情なのかもしれない。
わたしたちが“外”にむかって感じるどのような気持ちにもエネルギーはあります。抵抗や反感にも。
それらのものにエネルギーを注いで自分を疲弊させてしまうよりも(自分にとってためにならないことで他者に使うよりも)、自分から放たれるどのようなものにもそのようにエネルギーが宿るなら、その力を自分のために使うこと。
そのために“赦し”というのは、重要な大切なキイワードであると思います。
“赦し”と自分を“護る”ことは、どこまでいってもつながっているものであることも。
***
2023/8/13記 加筆修正
2024/08/27
お知らせ
お知らせがみっつ。
①ひとつは、かねてからおつたえしておりましたように、来月から施術メニューのアクセス全般の価格が更新されます。
アクセス・バーズ、アクセス・フェイスリフト、アクセス・ボディプロセス各種を、60分10,000円とし、30分追加ごとに+5,000円というように刷新することで、現在テスターで提供しております「エネルギー調整」をのぞく、すべての対面メニューを統一したいと感じたからです。
アクセスの施術をプラクティショナーとしてセッションをおこなうには、2年ごとに更新があるのですが、わたしはその2年ぶりの更新を今年の3月に済ませました。
そして今年3月の時点の自分自身のエネルギーと現在のエネルギーではおおきく変化し、またエネルギーがおおきく変化したということは、プラクティショナーとしてクライアントにクリアリングできるもの、調整されるものにも、アクセスできる領域にも変化が生じたということになりますし、それをわたし自身も感じつつ、いつもいらしてくださるかたにもそのようなお声をいただいています。
そのためアクセスの価格を変更し、セッションのエネルギーの価格帯を統一することが必要だと自分自身からもとめられました。
これはよくおつたえしていることなので、すでに何度もお聞きになっているかたもいるかもしれませんが、おなじメニューであっても施術者がどのようなエネルギーであるかは、セッションのエネルギーに付加されます。
だからたとえばアクセス・バーズなら、おなじバーズであっても、施術者それぞれのエネルギーがそこに溶けあって流れ、ひとつとしておなじセッションはないのだといえます。それはアクセスにかぎらず、ヒーリングなどすべてのエネルギーにおなじことがいえます。
そしてあらゆることに通じることだと思いますが、「“何を”するか、ではなく“誰が”するか」というのはとても重要な要素で、それは「そのひとのエネルギーがどのような状態であるのか」ということと密接な関わりをもちます。
だからわたし自身もそれを自覚したときから、自分のエネルギーがクリアであるように、研ぎ澄まされてゆくように、ということを意識し、それを選択しつづけています(そこにはもう、それを“選択している”という意識すらなく、“あたりまえ”のこととして自分のなかに馴染んでいる、というか)。
その選択の結果ではありますが、また自分自身に纏っていた玉葱のごとき皮を、1枚どころか幾層もごっそり剥がしてゆく、ということが今年は年のはじめから連続してつづいています。
去年もそういう流れではありましたが、今年はそれが加速している印象です。
外側の混乱を見るのではなく、みずからの内側とつながることというのは、さらに重要になっているテーマで、全体としてそれを自分自身から試されることも多くなっていることは、すべてのひとにいえることであるとも思います。
それを俯瞰でとらえる視点に欠けているとき、混乱を混乱と認識する余白もないまま渦に呑み込まれる、ということもあります。
自分が自分であるためにも、それぞれが自身にあったクリアリングを模索してゆくことはとても大切になるのではないでしょうか。
②お知らせのふたつめ。
これもかねてからおつたえしていたことですが、対面遠隔問わず、セッションのお申込みのさいのメニューの価格が合計13,000円以上のかたに、「エネルギー調整」を15分施術するサービスを今年の5月までご提供してきました。
それを6月から「カルマの浄化(仮)」というものに切り替えています。
わたしは「カルマ」という言葉があまり好きではないので(仮)がついているわけですが、輪廻、家系、トラウマ、習慣などから、わたしたちの内部に潜在し、結果として人生のなかでネガティヴな影響として具現化するというような、そういうものは自分自身の経験からしてもあると理解しています。
それを浄めてゆくことは、わたしたちの“重さ”となっているものの根源にアプローチするということでもあると思います。
だからこのエネルギーは、施術メニューのすべてのエネルギーとおなじように、まずわたし自身にとってとても必要なものとして受けとり、それが施術できる段階になったことを確認しての、このお知らせとなります。これまでのエネルギーとおなじように、セッションのなかで展開してゆくうちにまたこのエネルギーそのものの拡大や変化もあるのだと思います。
これは強烈なエネルギーで、施術を受けるかたの状態によってはおおきく反応があらわれることもあり、またクリアリングを妨げているもののクリアリングがまずは必要なかたであるならば、ひとつずつ丁寧に手放してゆくことが大切にもなるため、15分で様子を見て、すこしずつエネルギーに慣れてゆくのが好ましいようですから、現在のところ専用のメニューはなく、この施術サービスのみでのご提供となります。
よろしくお願いします。
③お知らせのみっつめ。
この春から、アクセス・ボディプロセスのメニューより「機能的なからだのバランスの実現化」という施術を開始しています。
こちらのメニューは名前から連想されるように、「自分の肉体のなかでバランスを崩しているものの修正、調整、その原因になっているものへのアプローチ、すなわち男性性と女性性の統合にむかうためのもの」――おもにそういったものに働きかけるエネルギーになります。
お受けになられたかたからは、「自分がなにを我慢していたのかを自覚し、それにNOということができた」というような、自身がほんとうは嫌だと思っていたことを認識してそれを手放すことのクリアリングがおこなわれた、というお声をいただくことが多い印象で、それもおそらく「バランスを崩していた」領域でご自身が自覚しやすいもののあらわれではないのかと思います。
そのほかご自分が自覚されていない部分、潜在意識にもアプローチされていますので、自然に日常生活における取捨選択(意識的、精神的、物質的に)も変化してゆくのは、すべてのメニューのエネルギーに共通するところだと思います。
わたしから見ても、よくお逢いする機会のあるかたは言動の変化がわかりやすく、ご自身でそれを自覚されているかたが多いこと、そしていつも可能性を見せてくださること、拡げてゆかれる姿に感謝しています。
「バランス」「ホルモンバランス」「自律神経」などのキイワードにぴんとこられたら、このエネルギーをお受けになられるのもいいのかもしれません。
それでは長くなりましたが、今回はこのあたりで*
2024/08/18
紙一重
巫女と人身御供は紙一重なところがある。
(それは神話のなかの櫛名田比売に象徴のように描かれているがごとく)
だからなによりもまず、自分自身を優先してね。それは我儘でも贅沢でもないから。
(在るがままに我がままに――自分自身にしたがう、自分自身のために、の“我がまま”ならば、それは我儘とは異なるもので、とても大切なことだけれども)
自分を“人身御供”にしないと決めるのは、決められるのは、ほかならぬ自分自身。
ここ数日に渡って、そんな話をする機会があった。
2024/08/03
8月、観音
Luna Somniumの8月は、観音とのつながりを深めています。
今月セッションを受けられるかたに施術いたしますエネルギーにはすべて、対面、遠隔問わず観音のエネルギーが副次的にふくまれます。
観音は地球上でもっとも古くから存在する“女神”(観音を女神とするかは異論あるところかもしれませんが、ここではあえて“女神”と綴ります)のおひとりであり、慈悲や平和というものを、わたしたちに教えてくれます。
そしてその“平和”の状態であるために、浄められ癒されていることが必要なこと、大切なものに光をおくってくれるので、魂がもつあらゆるネガティヴティや痛み、といったものをその神聖な炎で燃やし、わたしたちの心が“平和”であることを手助けもしてくれます。
奥深くに埋め込まれているもの、強く握りしめているもの。それを手放すことをサポートしてくれる、ということです。
たとえば怒りだったり、恨みつらみ、妬みそねみといったものを、よりスムーズに解放できるようにしてくれる、ということです。
そういう「強い念」が生じるような気持ち、ネガティヴティが自分のなかにあるとき、または自覚できないほどそれが何重にもみずからのなかに“隠されて”いるとき、わたしたちはまず、自身のなかにそれが「ある」「あるのかもしれない」という事実に傷つくのではないでしょうか。
恵まれているように見える誰かを羨む(その反転にある“妬み”のエネルギー)
自分にあんなことをしたのに、あのひとはなんの咎めも受けていない(その感情にある“恨み”のエネルギー)
そして誰かや、過去に起きた出来事を「赦せない」という気持ち。
自分自身のなかにネガティヴティを見たとき、それが自分の手にあまるような負であったとき、わたしたちはその事実そのものに傷つき、それを「なかった」ことにしようと抑えこみ封じこめて、「なにも感じないようにする」ということがあります。
あるいは反対に“外”に対するネガティヴな感情を加速させ、自分自身に対してすっかり自暴自棄になり、自身をおざなりにする、ということがあります。
どちらであっても「顕れかた」が異なるだけで、根本にあるものはおなじ。
それは「自分は“愛”から見捨てられている」のではないかという疑心、不安、怖れの顕れであるといえます。
――なぜなら自分には、“愛”が欠けているから。
ほんとうに自分が“愛”であるならば、誰かを妬んだり恨んだりするはずがない。自分に“愛”がないから、世界もわたしに“愛”を見せてはくれない、わたしを愛してはくれないのだ。
自身でどこまで自覚できるかはわかりませんが、みずからのなかにこういう“根”があったりします。
わたしは“愛”ではない。だから愛されなくて当然の存在だ。だからあのひととは違う、だからわたしにはああいうことは起きない。そういう“設定”です。
わたしたちがなにかを「許せない」と思うとき、なにより自分自身を「赦せない」と思っているときでもあること。
そういう経験を自分にさせてしまった自分がゆるせない、あのひととおなじようになれない自分がゆるせない、こんな感情をもってしまう自分がゆるせない。
しかし自身に“愛”がないと悲しむひとのなかに、愛がないはずがないのです。
それを観音は知っています。
すべてのネガティヴティは、自分が愛から分断、分離されていると感じているがゆえ、それを信じているがゆえに生じるもの。だから愛に纏った何重もの鎧としてのネガティヴティではなく、その中心にある愛を観音は見ています。
去年もこのおなじ8月に、観音に月の女神の柱を担当していただきました。
それは夏という季節は、わたしたちの奥深くにあるものが炙り出されやすい季節であることと無関係ではないように思います。
そのようにして炙り出たものを、神聖な炎で鎮静してくれる。観音はそういう女神です。
そしてこの8月の8という数字に、観音の二頭のドラゴンたち、陰陽の龍が、円環を描いて無限大をつくっている。そういうヴィジョンを今年は強く感じます。辰年の夏に、ドラゴンたちも浄めと癒しをおくってくれていることを。
また先月の女神であるグリーンターラは、観音のこぼされた左目の涙から生まれた女神です。グリーンターラ、観音とつづく、この夏の流れとともに。
*
こちらもまたあらためてお知らせすると思いますが、9月から対面のアクセスのメニューを価格変更する予定です。
去年の秋くらいから迷っていたのですけれども、ここにきてようやく自分自身の気持ちと覚悟が決まったようですので、そのようにいたします。このこともまた後日、BLOGに綴りたいと思っています。
*
*8月、これからの予定*
8月31日(土・夜)* 今月のセッション(対面・遠隔)をお受けくださったかたへ、30分間の観音の一斉遠隔ヒーリング
*該当されるかたには当日、個別にご連絡差しあげます。
それではどなたさまもよい8月を、そしてよい夏をお過ごしください。
いつもあなたがあなたでありますように。
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