2024/07/30
グリーンターラの一斉遠隔ヒーリングのご報告
今月、Luna Somniumのセッションをお受けくださったかたへのグリーンターラの一斉遠隔ヒーリング、無事に終了しております。
今回はかなり強くひとつのキイワードが浮かびあがっていて、それは家系、祖先、家族の歴史、といったものでした。
その歴史のなかにある、欠乏、貧困の意識、罪悪感、対立や争いの歴史、そしてその歴史のなかで肉体に封じ込まれてきた悲しみや怒りといった感情。
昇華されないまま受け継がれてきたもの、女性性の封印。
それはわたしたちの細胞、DNAのなかにもある意味でのダメージとして引き継がれ、その歴史やパターンの一部をみずからの人生においてもなぞり、自分が“ほんとう”はなにを感じているのか、どうしたいのか、という問いへの答えを明確にすることを怖れてしまう。
自分の中心にある“正直さ”から目を逸らそうとする。
グリーンターラはハートの回復をつかさどる女神でもありますが、だから自分自身への正直さと自己愛がつながっていることも教えてくれます。
自己愛とはわたしたちが自分を治癒してゆくことを自身に赦すことでもあります。
わたしたちが過去を振り返ればそこに過酷さを見ることがあるように、わたしたちの祖先もまた、いつの時代も困難さというものを、経験してきたのでしょう。
わたしたちの誰もが自分自身のベストを尽くしている。それは先人たちもおなじです。
だから家系や祖先は“負債”だけを持ちこしているわけではなく、すべてのものに両極の闇と光があるように、わたしたちに魅力や才能、美しさの贈り物もしてくれています。
しかしそれに気づき、それを輝かせるために、わたしたちの人生における“歴史”をとおして(わたしたちの人生の歴史は、祖先の歴史の縮図のひとつであるともいえます)自分自身のなかに溜め込んできた欠乏、貧困の意識、罪悪感、対立や争い、悲しみや怒りといったものを、ひとつずつ丁寧にお掃除をしてゆくのは大切なことです。
そのようにして「封じ込まれてきたもの」は“開いて”ゆく。
“解放”と“自己愛”はおなじ道筋にあります。
今回のヒーリングはそれらすべての領域にアプローチしたとありました。
*
家系、祖先というのはこのところの流れでよく浮かびあがってくるキイワードでもあります。
以前からそれはもちろん重要なものでしたが、たしかにこの7月のグリーンターラ、そして8月、9月とつづく女神は、その流れに添ってその月の柱としてつたえられたのだと感じています。
このたびもありがとうございました。
よい8月を!
*LOVE*
2024/07/24
7月、グリーンターラ
Luna Somniumの7月は、グリーンターラとのつながりを深めてきました。
今月セッションをお受けくださるかたに施術させていただくエネルギーにはすべて、対面、遠隔問わずグリーンターラのエネルギーが副次的にふくまれます。
個人的にこの7月は深くおおきな変容の月だったようで(大祓の月に手放すものを手放すことで入ってくるもの、そしてさらにスペースを空けるためのデトックスを加速させるもの、という感じでしょうか)、それにともなうあれこれが優先されているうちに、グリーンターラのことをご紹介できないまま、この特別な月もあと一週間を残すばかりだという事実に驚いています。
今月はあと数日間ではありますが、グリーンターラ、慈悲深きこの女神のこと、わたし自身がまたひとつ階段をのぼるための、この月の変容を見守りいざなってくださった感謝とともに綴らせてください。
この女神が象徴するのは“救済”です。
衆生(命あるものすべてのこと)である以上、苦しみを経験することから逃れられない人々の、その苦しみの声を聴きながら、自分の力だけでそのすべてを救うことはできないことに観音が涙されたとき、その右目から生まれたのがホワイトターラ、そして左目から生まれたのがグリーンターラであるといわれています。
ターラは“星”という意味をもちますが、この星とは目、観音が涙をこぼされた目のことでもあります。
「すべてのひとを救いたい」という観音の願いと哀しみから生まれた二対のターラは、観音のもうひとつの双眸。だから観音の目のゆきとどかないところにも目を配り、助けをもとめる声にすぐさま駆けつけてくれる女神たちです。
とくにグリーンターラは、もとめられればすぐに踏みだして助けにゆけるようにいつでも右脚をあげて準備している姿で肖像に描かれることが多いです。
困難なことに直面したり、解決することを望んでいること、必要としていることがあるとき、対立や葛藤があるとき、グリーンターラはそこに、示唆と癒しをあたえてくれます。
彼女はわたしたちの不屈や忍耐の領域をクリアリングし、困難、対立、葛藤の原因となっているものを自分自身のなかに見つめることを助け、そしてわたしたちがより本来のわたしたち自身となれるよう刷新して再誕生することをうながしてくれます。それこそが“救済”であること。
障害物がおおきすぎて砕いたり乗り越えたりすることができないと思うとき、グリーンターラはその障害物を除去することを手助けしてくれますが、そのようなとき彼女は同時にわたしたち自身のなかにある障害物(ブロック)を浄化してくれているのです。
そしてその過程でわたしたちはかならず、自分自身の本心、正直さ、ということとむきあうことになります。
そこにほんとうの“解決”というものがあることを、この女神は教えてくれます。
障害物とは、不安や恐怖心によってみずからの心がなにを感じているのかがわからなくなっているときにおおきくなってゆくものだからです。
だからこの女神は、わたしたちが真の自分にのっとっていないありかたにクリアリングと癒しをもたらしてくれ、わたしたちが自分のハートからの声を自分自身――“内”にむかって話すこと、他者――“外”にむかって話すこともサポートしてくれます。
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そしてこれはまたあらためてお知らせすると思いますが、セッションのお申込みのさいのメニューの価格が合計13,000円以上のかたに、いつも「エネルギー調整」を15分施術するサービスをしてまいりましたが、先月からこれを「カルマの浄化(仮)」というものに切り替えています。ほかにも時間的都合でまだホームページにも記載できておりませんけれども、春からアクセスのほうで新メニューを取り扱ったりなど、こまごまとではありますが、変更点などございます。
変更点はその都度文章ではおつたえできていないことが多く、口頭やメッセージのやりとりなどでおつたえするかたちになること多々ですが、「カルマの浄化(仮)」のことはどこかで簡単に書いておければな、と思っています。
*7月、これからの予定*
7月30日(火・夜)* 今月のセッション(対面・遠隔)をお受けくださったかたへ、30分間のグリーンターラの一斉遠隔ヒーリング
*該当されるかたには当日、個別にご連絡差しあげます。
それでは7月も残りわずかですが、よい日々をお過ごしください。
いつもあなたがあなたでありますように。
2024/07/15
影の幸運
*
わたしの場合、意識的、エネルギー的な手放しとシフトの入れ替えが深くておおきいとき、睡眠が自分の意志でコントロールできなくなること(ひたすらに眠くて起きていられなくなること。それは自分自身の思考のネガティヴティや、“外”との境界線が曖昧になって脳に流れこんでくる“重さ”のために心身に負担が生じて眠くなる症状とは異なる種類の眠さで、意識を“オフ”にするためのものです)
自分のなかに潜伏していた“重さ”が表出するそのようなタイミングのさい、その“重さ”の根、原因につながるものが過去生であれ家系であれインナーチャイルドであれ、その未浄化、未完了となっているものをわたしはヴィジョンで視覚化することで具現化し、その具現化されたものとともにエネルギー的な手放し、脳に蓄積、沈殿された、あるいはそうとは知らずに埋め込まれていた恐怖心の克服、クリアリングといった一連の流れが半ば強制的に生じるのですが
(だからわたしのなかで浄化がほんとうの意味ではじまった最初のころから、経験や期間を重ね、ある程度のところまでエネルギーを“上げて”ゆくまでは、まずその影のヴィジョン、エネルギーと対峙することそのものが恐ろしくてたまらなかった)
そのときもお仕事はできる状態であるものの(お流しするエネルギーにはなんの問題、障りもなく)、ただお流しするとき「自分の意識がどのような状態か」ということは非常に重要で大切にしていることなので、クライアントさんに誠実でありたいと思い、その期間はお休みをいただくことにしているんです。
それに自分のなかにあったそれがひとつ手放されると、またひとつ自身のエネルギーが変化し、そしてその「ひとつ」がおおきなひとつ、それ以前と以後ではまったく異なるものになること、お流しするエネルギーの質も変わり、それがより相手の細部、深部にまで届くようになることも知っているので、なによりも自分自身を“調えてゆくこと”がいちばんの務めであるとも思っています。
今年はとくに年明けから強制的にデトックス&手放しに入ることがつづいて、4、5年まえから意識して毎月エネルギー的なメンテナンスの時間をとるようにしているのですが、そのころから取り組んできたものが深部から、根源から、ドミノ倒しみたいに放出され昇華されてゆくような、ある段階における最終局面、調整のようなんです(その段階が終わればまた休符をはさんで、いまはまだ未知であるつぎの段階があるのだろうとは、経験上理解しつつ)
とくに夏はおっしゃるとおり潜在意識にある“重さ”が表出しやすいですね。
でもそれは自分のなかにそれが“ある”ことの自覚をうながし、それをクリアリングしてほしいというみずからの訴えでもありますから、その報せが一見不調和、不具合をともなう“(都合の)悪い”ものに見えても、真の自分自身のためには“良い”ことなのですよね。
それに気づくか気づかないかの差があるだけで。
“気づける”ことはとても幸運なことでもあると。それは「最初の一歩に辿りつくまえの“幸運”」とでもいうべきものだと思っています。
(そしてほんとうの“ほんとう”は、良いも悪いもないのだということもまた、知っています)
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