2022/06/25

“与えられなかった”もの


 自分がそれを“与えられなかった”から、自身の周囲にはそれを与えたいと思うか、それとも自分が“与えられなかった”からこそ、他者もおなじ思いをするべきだと判断するか。

 どちらの痛みのほうが深いかは誰にもいえない。でも自分が「どちらでありたいか」は、自身で選ぶことができる。

2022/06/16

千手観音



 5月の終わりのころ、“夢”と“鏡”という言葉を鍵にして、招かれるように足を運んだ場所。

 矢車菊の野原を飛びかう白い蝶は花から生まれているかのごとく空中にあふれ、長い散策のあとにそこから去るとき、今度は黒い蝶たちが梢に飛びかっていた神秘的なその場所。

 そこにあった樹々でできたトンネルはあちらとこちらを繋ぐ橋のようで、このトンネルを渡るためにここに来たのかもしれないと感じたこと。

 とても不思議な気持ちで頭上を仰げば、光がこぼれ落ちていくつもの色を交差させていたこと。――虹。

 ふと、「千手観音」という言葉がおりてきた。わたしにはその樹が千手観音さまのお姿のように見え、そのときからなぜか、その名は思いがけないタイミングで受けとる手紙みたいに幾度もわたしの心に前触れもなく訪れるようになった。そのようにして訪れるものはいつも、なにかの知らせで予告だった。

 そしてやはりそうだった、ということを感じるいくつかのこと。

 自身の内に感じることを掬いとり、それにしたがって行動し、それでいながら行動を起こしたあとはその行動のゆくすえを自分の視野で限定したり修正したりすることなく、流れに身をまかせることを大切にしたい。

 それがちいさなものであっても、それがささやかなものであるほどに、のちになって重要な意味をわたしの人生におよぼしてきた。自分にとっての喜びになることでも、都合が悪いことでも、どんなことでも。

 はじまりはいつもささやかでちいさい。そのささやかなちいささに気づき、自身の内部から掬いとってあげることは時にむつかしいことでもある。ちいささ、ささやかさはよく見過ごされてしまう。けれども大事なことはちいさくてささやかなものに潜んでいることもまた、よく感じる。

 そのようにして繋がり、巡るものがあることも。


2022/06/15

湯津爪櫛


 満月の日、その“時”が満ちるまえに湯津爪櫛をいただいてきた。今年のはじめからずっと示されていた土地で、櫛稲田姫命の櫛を。

 “櫛”をキイワードに年明けから暗示されていた場所はふたつあり、ひとつは櫛稲田姫、ひとつは大物主にまつわる場所だった。

 櫛稲田姫と須佐之男命。大物主と百襲姫。たぶんどちらもおなじ意味をわたしに示唆し、それはとても重要なことで、どちらの櫛がわたしの“櫛”なのかずっと迷っていた。どちらもおなじ意味をもつのだから、どちらを選んでもおなじ。でもそれは、おなじでありながらおなじではないこと。

 そして今月に入りわたしのなかで収束してゆくものとともに内側からの声が、櫛稲田姫の“櫛”のほうだといった。

 それにしたがうことにした。

 その土地には奇遇にも(そしてそれはおそらく偶然ではなく)、弟橘媛にまつわる伝承をもつ場所もあり、お寄りすることができた。「海神の怒りを鎮めるために海に身を捧げ、そのとき海辺に流れついた櫛をおさめた」という弟橘媛という名にかならず添えられるあの神話が綴られてあるのを読みながら、「“櫛”」とわたしの心に感じるものがあり、やはりこれでよかったのだと思った。

 櫛稲田姫の櫛、弟橘媛の櫛。

 奇魂と書いて「“くし”みたま」

 クシナダヒメは奇稲田姫と記されることもある。

 自分の文を読みなおしながらふと、「奇遇」という言葉にも“奇”の字が入っているのだと感じたりする。


2022/06/08

矢車菊


 この春、矢車菊の青い花を幾度手わたされ、幾度見かけただろう。

 今年になってから、矢車菊に女神イシスの気配を感じるようになった。あくまで自分のなかだけで感じることでもあるから、それを誰かにつたえるために言葉というかたちあるものにはしてこなかったけれど、なぜそう感じるのかという理由のひとつに若きツタンカーメン王の妃、アンケセナーメンが関係しているようだと、わたし自身のなかで点と点が結びつくようなひらめきがあった。

 あるときクレオパトラ、古代エジプトと終焉をともにしたクレオパトラ7世のことがわたしの意識に入ってきて、この美の化身として語り継がれる女王のことは自分でも不思議なくらいにこれまでまったく興味をもったことはなく、エジプトとその王朝に心惹かれた子供時代からむしろ、その名を避けてきたところがあった。

 エジプトといえばクレオパトラというような発想を、あまりよしとしていなかったのかもしれない。我ながらあまのじゃくなところがなきにしもあらずな性分だとは思うから(そのわりにはツタンカーメンという名にはなんらかの反応を自身のなかに感じたりもして、かの王も“エジプト”というキイワードから思い浮かべやすい名ではあるから、矛盾しているといえば矛盾してはいる。まあ、その矛盾自体はあまり深追いするものでもない)。

 そのためクレオパトラ7世のことが意識に入ってきたとき、いささか驚きを覚えた。

 『クレオパトラは女神イシスの後継者、イシスの魔術的な力の後継者としての教育を受けた女王であり、真の王や女王はみずからの国を統べる者でありながら同時に最高位の神官としての力をもつため、クレオパトラはイシスの女神官でもあった』

 そのときわたしのなかで「ではアンケセナーメンは?」という問いが浮かんだ。なぜその瞬間、それが浮かんだのかはわからない。

 なぜだか幼いころからアンケセナーメンには特別な思い入れが自分のなかにあるようにも感じるし、だからそれがとっさに出たのだろうと思う。

 『アンケセナーメンもハトシュプストも、すべての王の娘(姉であり妹)たちはイシスの後継者であるといえる』

 ツタンカーメンが死を迎えたとき、王妃アンケセナーメンがその棺に矢車菊の花束を捧げたという伝説がある。それはあくまで伝説の領域にとどまるひとつの逸話ではあるけれど、それを思い浮かべるとき、若き王の棺に矢車菊を捧げたアンケセナーメンに、オシリスと分かたれたときおなじようにその花を捧げたイシスが感じられるように思った。

 イシスのエネルギーは青い色をしていて、それはあの花とおなじ色。もっといえば、アンケセナーメンが“イシスの後継者”ならば、オシリスを失ったイシスの姿に自分自身を重ねて、そののちの長い旅路のあとに伴侶を“復活”させた女神の姿に自身の愛を重ねるように、その棺に女神の青を捧げたのかもしれない。そのアンケセナーメンの気高さが、感じられるような気がした。

 子供時代からかの王妃に思い入れがあったのは、その気高さをどこかで感じたがゆえ、あくまでも「わたしから感じられる視点」としての話ではあるけれど、それゆえだったのかもしれないと思ったりして。

 この春、何度あの花をこの目に映し指先で触れただろう。

 いくつか巡った古墳のそばにはいつも矢車菊が咲いていた。いにしえからの空気を色濃く残した場所に咲いている青い花を眺めながら、古い記憶とつながっている花であることを強く感じた。エジプトに咲いていた、あの花とこの花は結びついている。

 そして矢車菊を目に映し指先で触れるたび、わたしの古い記憶にも働きかけてくれているような、そんな気がした。


2022/06/07

返済


 返済はゆるし、ゆるしは受けとること。

2022/06/05

ずっと願っていたこと


 たとえば人間が「幸せになりたい」というとき、穏やかな安らぎや、大切なひとたちと過ごす時間のことを思い浮かべる。それを願ったなら、そのような日々をおくりたいというあらわれだとして、でも神は、「幸せ」は魂の成長のなかにあるのだとうながしてくる。そしてその成長する場をあたえることこそが愛なのだと。その愛は人間の目から見れば試練や不運にしか感じられないこともある。そしてさまざまな経験を得て、わたしに起きたことは不運ではなく、愛だったのだといまわたしは感じられる。それがすべて必要であったこと、それがなにかの返済のためにあったこと、その返済をすることをわたしが意識していないわたしが、ずっと願っていたこと。