2024/06/20
海と黄泉、太陽の花
赤いひと粒の宝石のような木苺を摘みとっていただくと、夏がはじまった合図みたいに口のなかでほんのりと甘く酸っぱい香りがひろがった日。
その庭の主が帰りにわけてくださった自家製の梅のジャムをパンにつけて食べればやっぱり夏の味がして、季節が移ろったのを朝ごとに味覚で感じているこのごろ。
「あの木苺でも食べながら待っていて。たくさん実っているから、ぜんぶ摘んでもいいから」という庭の主の言葉に喜んでひと粒いただこうと指を差しのばしたとき、そのまえに彼女と“龍宮”にまつわるお茶を飲み、海の下の世界の話を繰りひろげたことが脳裏に浮かんできた。
彼岸を主題とした神話や物語では、そちらの世界の食べ物を摂り入れると帰れなくなる、などといったりする。
木苺を口のなかに入れるとき、ペルセポネの柘榴のことを思い出しながら、ここが“龍宮”だったら“地上”に帰還できないかもしれないところね、とすこし悪戯めいた気持ちで思った。
そしてそのあと海へと出かけたのだから、たしかにそういう一日だったのかもしれない。
歌を取り戻した人魚のようなひとと。
薄紅色に染まる空のなか、太陽を中心とした大輪の花が出現するみたいに雲が花びらのかたちにひろがって、そのまんなかにあるおひさまを真珠のようだと感じた。
月を真珠のようだと思ったことは幾度もあるけど、太陽にそれを感じたのははじめてだ、という話をし、そんなふうに泡のような会話をかわしているうちに日は沈み、夜の海に浮かんでは消えるマーメイドの鱗みたいな光を眺めていた。頭上を仰ぐと弓のかたちをした月。
それは上弦前夜のこと。
海と黄泉はおなじもので、扱いかたを誤らなければ怖ろしいものではない。それは夜ともおなじ。
でも、それを知るために自分のなかに隠されていた“ストーリー”が立ちあがることがある。
それが“立ちあがる”のにふさわしい時機と断層を、みずからが選びながら。
庭に一歩入ったとき、樹のかげで囀る鳥がより高らかに鳴いて歓迎してくれた。
その下に咲いていた祝福の花。太陽の花。