2026/09/23

熊野詣(0)









 熊野への旅が決まったのは突然で、自分でも予期していなかったことだった。


 “熊野”という土地は遠い異郷のように感じられて、この人生で訪れることになろうとは、なかば信じていなかった。


 自身のなかにあるものと、ある種近いものがある。けれどもそれを、こ遠くから眺めているだけの場所で、現実のなかで足を踏み入れることはないのではないかと。


 しかしその一方で、その土地を訪れるルートが開かれたときの「予感」とでもいうべきもの、


 諏訪へ、天橋立へ、富士へ行くことが決まるまえに感じた予感とおなじものを、あるときから熊野にも感じるようになり、不思議に思ってはいた。


 この秋はすでに、わたしにとって特別で意味深いものになるだろう重要な旅をすることが決まっていた。


 そのまえに熊野は思いがけず現れた土地で、自然な流れでそこにむかうことが決まったとき、このあとに控えている旅と熊野はつながっていて


 (そしてここ数年の旅の巡りのすべてともつながっていて)


 ある座標軸がさだまったとき用意されていたみっつならぶ星のなかのひとつだったのだろうと受けとった。


 それを示すように、熊野行きが決まってから当日までの流れは、あまりに速く、スムーズだった。


 初日、家を出るまえから雨が降っていて、安定の船出だと感じながら


 (聖域にむかうときよく、歓迎のあかしとして、こまやかでやさしい小雨が降る)


 目的地に着くまえの休憩のとき、不意に束の間雨がやんで、雲間から太陽が出現した。


 その太陽を目にした瞬間、「鏡」と自分のなかから浮かんでくるものがあった。


 そのときはじめて、熊野を訪れることの実感と重要性がかたちをとりはじめた。


 おなじ日に熊野速玉大社にお詣りしたさい、空の太陽に視た「鏡」と似たそれを見つけ、しばしのあいだじっと見つめていた。


 ヤタガラスと黄泉がえりの地ともいわれる熊野。


 そしてその「黄泉がえり」とは「太陽の“再生”」のことを指すのだと知ったのは、旅の終わりのころ。


 この秋巡る、巡った、みっつの重要な土地のひとつ、熊野。


 そのすべてに共通するキイワードとしての“再生”



それを理解したとき、やはり熊野からはじめなければならなかったのだと、得心したのでした。







曼珠沙華






 旅先では意外なほどにハイビスカスの赤を行く先々で見かけた。


 そのなかでふと目に入ってきた白、それが今年はじめて見た曼珠沙華。





 それから数日経ち、幾度もこの花を目にするようになったけれど、


 最初の白以降に見た曼珠沙華の色はどれも、振り返った夏が最後の息を噴きだしたような赤だった。


 昨日はまさにその「最後の火の息」のなかにいるみたいな一日で、あらゆる場所で燃えたつ火のごとき曼珠沙華を見かけた日でもあった。


 秋分の日のまえの準備。


 意図していたわけではなかったけれど、そういう一日を過ごすことができた。




2026/09/21

岩の都






 熊野への旅。


 旅の目的を点としてさだめ、中心軸から旋回するように巡った場所。


 わたしの目に映ったその土地は、“岩の都”だった。


 途方もない年月を内包した巨岩の集積。


 霧深い山のなかにも遥かな海のみぎわにも、そこに沈黙とともに佇んでいた、古い記憶の断片の荘厳さに圧倒された。


 個人的に熊野には、蠍座的なものを感じた。


 深く積みあげられた地層みたいな場所。


 どのようなものであってもそうだけれど、自分がどの"層"を見るか、繋がるかで受けとるものもまた変わる。


 深奥に触れるには自分もまたそれを見せる必要があり、自身のなかにある"それ"も映しだしてくれるところだと。