2026/08/31
古代蓮
初夏のころ、古代蓮の花を見に行った。
早朝のひかりを浴びて透きとおる花びらが発光していた美しさを、いまも瞼の裏で記憶している。
気が遠くなるほどの昔、おなじ光景を過去のひとたちも見たのだろうかと想いを馳せたことも。
地中深くに眠っていた古代の種から自然に発芽して蘇った蓮。
夏の記録がほとんど残せないまま8月も終わろうとしているわけだけれど、古代蓮のことは残しておきたかった。
この花を見に行ったのは2度目だけれども、はじめて目にしたとき以上に鮮烈に感激を覚えた。
現代より五感がずっと研ぎ澄まされていただろう過去のひとたちは、この花になにを視ただろう。
蝶にでもならないかぎり、泥のなかに咲く蓮の花に近づくこと、その香を吸い込むことはできない、といつか書いたことがある。
けれども古代蓮は、沼地のなかから現れた天女みたいにおおきく花をひろげて、そこに宿る神秘を教えてくれているみたいだった。
それをそっと吸い込むために、顔を近づけた。
2026/07/08
『月の片翅をよむ 夏の回』朗読教室 7月5日
四季を巡る大勢待なつみさんの朗読教室、『月の片翅をよむ』の夏の回 、草舟あんとす号にて
「では薔薇は?
薔薇の花はどんな秘密をその渦のなかに隠しているのだろう。」
からはじまる文章を読みました。
“森”のなかに入ってゆく場面を、holy gardenの緑がもっとも濃く繁る季節に。
発声をはじめた途端にささやかに降りだした雨は、“森”の奥深くへと進むほどにはげしくなって、終わりの合図のころに突然やんだ。
「まるで退行してゆくよう」だといっていた誰かの声。
淹れていただいたホーリーバジルのお茶を飲みながら声を放ち、言葉をかわしあうひとときは、
一時的に外界から隔てられた“森”のなか、あるいは泉の水の底を映す“舟”のなかで、自分自身のこだまに心澄ます時間でした。
*
蛇足としての余談のようなもの
『月の片翅』を書くとき、今回の朗読教室で読んだ場面の言葉をおろしてゆくことはとても苦しかったことで、この部分を“読む”のだということになったとき、胸が塞がれるような、呼吸がしづらいような気持ちになり、それはこの場面を記すことが、わたしにとってクノッソスの迷宮のごとき“森”のなかに入ってゆくようなことであったこと、おそらく“声”をとおして文字を“読む”ことで、それをふたたび体験することを知っていたからでした。
漠然と心に靄がかかるとき、自分のなかの“森”が騒めいている。
またひとつ、さらに“奥”へと進むようにもとめてくる。
入口と出口がおなじ場所にある、誰のなかにも存在する迷宮のごとき“森”
――「まるで退行してゆくよう」
声という音にしてみずからの“外”に言葉を放つことによって、その音を、その言葉を自分自身にも聴かせることは、二重の意味をもつ“まじない”のようなものでもあるのだな、と昨日は感じた。
家に帰った途端にとても眠くなって寝床に籠り、長い時間意識から離れる必要があったのも、その“森”の道を、しるべを辿りながら歩いてゆく“つづき”が無意識のなかではおこなわれていたのだろうと。
とても貴重で、重要なことでした。
それは「より呼吸を深くするために」「さらに澄んだすがすがしい風が胸のなかを通るために」起こること、いつだって。
自身からうながされ、“森”の奥へと進み、その景色と対峙して自分のものとするたびに、
奥へ奥へと進み、みずからを研ぎ澄ませてゆくたびに。
次回のお教室は秋も深まるころの、10月25日(日)を予定されているそうです*
またふたたびの“巡り”を楽しみに。
2026/07/04
みずいろの蝶
ふたたびやってきてくれた薔薇。
やさしいかたから*
*
昨日、朝の森を歩いていて、クスノキの巨樹の下を通ったとき、自分のすぐ傍ら、右の頬のあたりをなにか青くきらめくものが通りすぎた。
その青い影が浮上したほうへ首を巡らせると、翅の羽ばたきの一瞬を目がとらえ、けれどもすぐに消えてしまった。
もう一度その青が見たくてしばらく姿を探したけれど、もう見つけることはできず、諦めてふたたびクスノキの緑に視線を移したとき、今度は遊ぶようにわたしの左側の肩のあたりを横切っていった青い影。
みずいろの蝶、発光していた翅の透きとおる青。
アオスジアゲハのようだった。
*
あらゆるものやことがつながりをもっている。
わたしのなかでは。
2026/06/20
『月の片翅』をよむ(夏の回)受付開始【満席】
大勢待なつみさんの朗読教室
『月の片翅』をよむ
at 草舟あんとす号
🦋夏の回、募集開始しました🦋
7/5(日) 10:30-12:00
プリント、お茶・お菓子つき
4,500円
受付はこちら【満席になりました】
草舟あんとす号access
東京都小平市小川町2-2051 tel 08013305452
JR武蔵野線「新小平駅」より 徒歩8分
西武国分寺線・拝島線「小川駅」より 徒歩10分
*
小平にある植物の本屋さん、草舟あんとす号で季節の巡りとともに開催される、朗読家・書籍修復家の大勢待なつみさんの朗読教室で、津木野由芽の『月の片翅』をテキストとして使っていただいています。
春につづきこの夏も、わたしも参加予定で楽しみにしています*
余談ですが『月の片翅』の作中に、満月という女の子の
「幼いころ、花の根もとには輝く宝石が埋められているのだと思っていた。」
という語りがあるのですが、初夏の日々に紫陽花を眺めながら、この花の下に埋められている“石”は蛍石かしら、などと思い浮かべたりしています。
作中の冒頭にあたるこの部分は、春のお教室のさいに朗読したのですけれども、あらためて声にして読んでみると、言葉が“意味”から離れ、そしてまた自分では意図していなかったあたらしい“意味”をこだまさせて還ってきてくるような、より澄んだ自分とつながる、肉体が「植物に近づく時間」だったなと感じます。
2026/05/20
人身御供の回避、言葉による霊的な意図
去年出逢ったばかりのひとだけれど、すこしお話しただけでお互いにすごく共通するテーマをもって生きてきたことがわかり、思いがけずあまり人にいってこなかったようなことをいってしまう相手がいて、彼女のことをまだ「友人」と呼ぶには図々しいかなと思いつつ、おなじテーマをもっているひとというのはとても縁のある相手であると思うから、これからも親しみを重ねていければと思っているのだけど、
彼女は『月の片翅』を読んでくださっていて、そこに彼女自身のテーマでもあるもの、双子、新月と満月、蝶、鏡、泉といったものを見つけ、ご自身と連動するものを感じるという話になって、わたしのテーマのひとつに昔から「少女と乙女」があり、彼女もまたその主題をもっていて、彼女と出逢ってから、過去のものになりつつあるそのテーマがわたしのなかで再燃するのを感じてもいる。
『片翅の泉』の展示に、過去のわたしが“少女”と呼び、わたしを“乙女”と呼んでくれた女の子がきてくれたのも、そのつながりのひとつ。
(もっともあの子はわたしのなかでこれからもずっと“少女”であり、わたしもあの子のなかでは“乙女”であるのだろうけれど)
おなじテーマをもつそのひとと先日お話しながら、新月と満月は少女と乙女であるのかもしれないなと自分のなかに感じるものがあった。
そのひとにお話したことが、そのひとという鏡をとおしてあらためて自身に反射する言葉でもあったから、ここに一部残しておこうと思った。
(下記は彼女に宛てたメッセージに加筆修正して、わたし自身のことにだけフォーカスし、そのために補足しておく必要があると感じる文章を書き加えてあります)
***
もうずいぶんまえになるのですが、自分のために物語を書いていたときがあり、そのなかのひとつに『蝶のうたた寝』という話があって。
その当時のわたしはすごく“閉じて”いて、話も必然的にそういう方向性になり、でもいまなら、そのとき、『蝶のうたた寝』では書けなかったものが書けるかもしれない、書けるだろうと『月の片翅』を書くことにしたんです。
『蝶のうたた寝』は男女の双子の話で、幼いころに彼岸へと旅立った相手と夢で逢う、そして現実で生きることを選び、夢のおわりに少女時代を終わらせる、みたいな感じで『月の片翅』とも骨格としてはおなじ構造をもっていて。『月の片翅』の内容や文章自体はもちろん、片翅の泉のために書き下ろしたものですが。
もともとわたしのテーマでもあるんでしょうね。『蝶のうたた寝』のほうは実話とまではいかないものの、自分自身のエピソードをすこしまじえた話でもあったのですが、『月の片翅』がその進化形的なものであるなら、片翅の泉以降、あの話がわたしの自伝だと思っていらっしゃるかたが多数いらっしゃるらしく、あなたもあれを読んでいると言葉がわたしの声として再生されるといってくださって、それだけ自分のなかの“泉”に深く潜り込んで書いたものであったのかもしれませんね。
そして縁のあるかたがそれを拾って、受けとってくださっているのだと。“泉”の底でつながっているものを。
そのとき、“わたし”の物語は、“あなた”の物語にもなる。
今回は女の子の双子の話で、『蝶のうたた寝』とはその点あきらかに違うところがあるのですけれども。
昔書いた話は少女の成女式というか――成女となるための通過儀礼的な昔話、『うりこひめ』とか『猿の婿入り』とか、いまではマイナーになっているそういった昔話と成女式、人身御供をからめた民俗学の本を大昔に読んだことがあって、それがすごく自分のなかでぴんときて、そのモチーフ、テーマをもとにしたものを綴ってみたいと思ったのが、おそらくわたしが物語というものを書いたはじめでした。
「人身御供になるさだめの少女が自分を生贄にするはずだったはずの神の“神殺し”を決意し、それがなされたとき、現実に生還し、そうしたプロセスのもとではじめて“女”となって“幸せ”に生きることができる」という構造が成女式の物語、昔話にはあり、自分のなかにそのテーマを必要としていて、自身の「物語をものがたる」ためにこそ、そのテーマをモチーフに書いていた。
だから『蝶のうたた寝』のとき、語り手の少女に対応する相手、いわば“神殺し”の相手は少女の双子の弟――少年だったのですが、『月の片翅』はそのテーマをすこし進めて、自分と自分、新月(陰)と満月(陽)の統合的なことが書きたかったのだと。
書いているときはほとんど無意識で、自分で文章をコントロールすることもできないので(おりてくるままに流れにまかせて書くから)、いまにして思うとですが。
***
この神(ここでいう“神”とはほとんどの場合“邪神”としての神であり、それは“魔”であるともいえる。そして“魔”は人間を甘く惑わす。その「惑わし」のほうが真実であるかのように)の人身御供となるはずだった少女が“犠牲”を回避するために“神殺し”をして現実に帰還する、そして“少女”は“女”となる、というテーマは、これもいまにして思えば、わたしのこの人生におけるおおきなテーマであったことがわかる。
だから自分のためにその物語を書き、自分自身に語って聞かせて、ひとつの“柱”をつくり、みずからに“預言”していたのだろう。そのためにわたしは過去に『夏の鳥籠』を書き、『蝶のうたた寝』を書いた。
自分では知らない自分、自分では意識していなかった奥深くにある自分は、とっくにそれを知っていて(“それ”にかぎらずなんでも知っていて)、だから言葉はわたしの意志をこえたところから、いつもやってくるのだと。
『蝶のうたた寝』を書いたとき、とても不思議なこと、物語がわたし自身の現実と融合して立ちあらわれるような、神秘的な出来事があった。
そして今回の『月の片翅』もあのときとおなじようなことが起こっている。
「月の片翅は預言書のよう」だといってくださったかたもいた。
きっとそのとおりなのだ。わたしにとって過去に綴った物語が現在につながる、ここ数年の自身の“預言”であったみたいに、そういってくださったかたのなにかに触れ、示唆されたものがあったのだと思う。
きっと読んでくださるかたはそれぞれわたしとも縁のあるかたなので、そのつながりによって受けとってくださっているものもあるのだろうと、展示から2か月が過ぎたけれど、ありがたいことに先日またご感想を聞かせてくださったかたのお話から、感じるものがあった。
わたしの祈りのなかに、わたし自身もそうだけど、縁のあるかたを「人身御供」としない、というものがあるのだと気づいた。そのためにそれぞれが陰と陽を統合する必要もあるのだと。
「読む」ことによってそうなってゆくように。これまで書いた本や物語は、みんなそのための意図をもっていると。
それぞれの無意識のなかに、その「意図」を言葉によって置く。そして結び目をつくる。
言葉というものに宿した霊的な意図も、それによって読み手のなかに流れるエネルギーも無数にあるけれど、「人身御供の回避」はわたしのもっともおおきな意図であることを、物語というものをはじめて書いたときから知っていた。
その「知っていた」ということを再認識、再確認するここ最近の流れ。
我ながらまとまらない文章、そしてぴんとこないかたにはどこまでもぴんとこない話だとは思うけれども、わかってくれるかたがわかってくださればそれでいいのだと、おおやけにするために書きはじめたこの言葉は、いまのわたしのためにも書いたものであるのだと思う。
「今世では“人身御供”にならない」
――とにかくそれがわたしの今世のもっとも優先されるおおきなミッションだったらしく、そのために生まれたときから幼少期、そのあとのさまざま、ここ数年に至るみち、すべてのことがその難題をクリアにすることをいちばんの目的としてあったことなのだと、おなかの底から納得し、そのたびにあたえられたものは、それをこえるための課題だったことが、いまになればわかった、という個人的な話でもあり、
その過程でエネルギーを扱うことになったのも、また必然的な流れだったならば(クリアリングやヒーリングというものを知らなければ、とてもではないけれど生まれたときからもっていたみずからの“重さ”をどうすることもできなかったと思う)、これからも必然的な流れを自分がゆくことを、もうすでに知っているのだと、
そしてそれはぜんぶ“ただしい”のだと、これはそのための霊的な意図として自分自身のために書いたものでもある。
ほんとうの意味での“決別”の表明ともいえる。これが真実、“最後”だと。
一度それをはっきりいっておかなければならないと思った。
そして「真実、“最後”」にするために、わたしはさらにわたしのなかの未昇華であったもの、あるものを、昇華させてゆくだけであること、ただそれだけでいいのだと、自分から答えがもたらされた。
ここ何年も、どのように判断したらいいのかわからず保留にしていたものも、すべてそこにつながることをようやく了解し、心からすがすがしい気持ち。
未来はあかるいことを知っている。信じている、ではなく知っている。ようやくここまでくることができたのだから。お疲れさまと自分にいってあげたい。そして、ほんとうにありがとう、と。自身の“外”にあって、手放すもの、手放してきたものにも――“魔”としての役割を担い、自分を苦しめていたものにさえも――大変お世話になりました。おかげさまでたくさん学び、成長できました、と。
言葉はそれを放つひとが昇華されるごとに、言霊の力の断層を深くする。そして光(こ)透(と)波(ば)になる。
生まれたときから持っていただろう(持ち越していただろう)わたしの、“ミッション”とはまた異なる領域にある“祈り”が、“言葉”のほかにもうひとつあるらしいことに気づいたのは2年とすこしまえのことで、そのヒントはわたし自身の子ども時代から散りばめられ、示されていたのだけれど、やはり自分がある段階になるまでそれを顕在意識では知らなかった(潜在ではもちろんとっくにずっと知っていた。でもある段階までクリアリングされるまで“目隠し”していたこと)
そちらがこのさきどうなってゆくかわからないけれど、すべては必然であるし、昇華されてゆけばどうであれ“ただしい”ほうにゆくのだと、自分が知らない自分はすでに、知っているのだろうから。
大切なのは執着を溶かしてゆくこと、未練を残さないこと、そのために潜在にあるものをふくめてクリアにしてゆくこと。“怖れ”ではなく“行動”を選ぶこと(大前提として、もちろんそれは“怖れ”によって突き動かされる行動ではなく。怖れによってしか行動できないのだとしたら、まず大量にクリアリングしてあげるといいものがあると思ったほうがいい。それは“悪い”ことではなく、それだけそのひとの“悲しみ”が深いのだ)
そうすればどうであれ、自分にとって“ただしい”ほうにゆく。それを自分が自分に証明してくれている。
2026/05/15
双子のかたわれ、あるいは少女と乙女
いつか、少女という生き物について「空を飛ぶことを祈りながら背中に羽がある自身を疑い、反世界に出奔しようとするのが少女。」と綴ったことがある。
当時の言葉にしたがうなら“少女”――いつもその肩越しに“空”を感じるひとから、双子の薔薇のかたわれをいただいた。
彼女が手ずからおつくりになられたもの。
ちなみに「夢を見ることを願って心臓に翅がある自身を信じ、世界を空想しようとするのが乙女。」
少女と乙女はずっとわたしのおおきなテーマのひとつだけど、最近またあらためてそれを意識することがつづいていて、これはどういうことだろうと観測している。
***
少女は拒絶する、乙女は受容する。
世界を、時間を、他者を、そしておそらく自分自身を。
自分を縛る何者かに首を横に振り、
ときにはおのれの美しささえも拒み背け、
空を飛ぶことだけを祈り、
その背中に羽がある自身を疑い、
反世界に出奔しようとするのが少女。
自分が愛す何者かに首を縦に振り、
ときにはおのれの穢なささえも迎え入れ、
夢を見ることだけを願い、
その心臓に翅がある自身を信じ、
世界を空想しようとするのが乙女。
少女は高潔で勇敢。乙女は慈悲と夢。
(大昔のアリス・リデルの誕生日に記した言葉から。――そのころのわたしにとって“少女”はアリス・リデル、“乙女”はクシー・キッチンでした。)
***
『月の片翅』
©Yume tsukino
©yukane
桜貝の蝶
清らかな心でいつも世界を見つめたいと祈るかたから、海辺でご自身が拾われた桜貝を贈っていただいたのは、もう何年もまえのこと。
そこにこめられた想いとともに大切にするあまり、おさめられた箱と一緒にしまいこんで行方がわからなくなってしまっていた貝殻たちが、さきの新月の翌日に還ってきた。
このタイミングで。
いつからか自分が物語より物語らしい現実を生きているなと感じているけれど、世界に散らばるうつくしくてやさしいものをとおして、あらためてわたしに幾度もそのことを囁きかけてくれる。
***
***
桜のはなびらは
風とともに
天と地のあわいを
舞いながら
のびやかに流れてゆく
そしてときに
水に沈んだはなびらは
桜貝となって砂浜に流れ
土に姿をあらわし
はなびらと貝の名残を
その断片に宿した
翅を手にいれ蝶となり
やわらかな火のごとく
空へと羽ばたいてゆく
“そんなことがあるわけがない”
そう思うことでも起こりうる
“流される”ではなく“流れる”
どんなことでも起こりうると
みずからに ゆるすということ
そしてそれも
自分自身のなかに揺るぎない
おおきな樹が育まれたからこそ
できること
(――『片翅の泉』に寄せた、まぼろしの28の翅のひとつから。)
2026/04/22
『月の片翅をよむ』朗読教室 4月19日
大勢待なつみさんの朗読教室。
ちいさな緑の王国であるholy garden、草舟あんとす号さんの書物に囲まれ輪となって座り、巡る番を待ちながら声を解き、聴く。
言葉のうえにそっと音をのせ、ながれるままに。
それぞれの声の色や温度、質感。それに“澄ます”ことは、みずからの内側に“澄ます”ことでもあった。
満月が象られ、雪と桜の色の糸で綴じられたちいさな本。開けば空の色で水の色をした翅の蝶。
きっとholy gardenの目には視えないけれど“ある”、泉のなかからこうして現れてくれたのだろうと思い、嬉しかった。
またひとつ、その日の記憶ごと内包してやってきてくれた、特別な意味をもつもの。
コトリ花店さんの双子の薔薇。心満ちる日の帰り道。
『月の片翅』をテキストに使っていただいている大勢待なつみさんの朗読教室、次回は7月12日を予定されているそうです(追記、訂正。次回は7月5日(日)に変更になりました。ご了承ください)
ひきつづきholy gardenの草舟あんとす号さんで。単発のお教室、そしてとてもやさしいかたたちばかりの場所なので、最初は緊張があっても、次第に声もからだも解けてゆくのではないかと思います。
わたしも自分の“声”というものが長年好きになれずにいましたが、それは“声”には自分のすべてがある、そのひとのすべての情報があるからだったのだ、というのがここ数年の気づきでした。
自分を受けいれてゆくごとに、自分の声もまた、受けいれてきました。そして、声は変わってゆく、自分が変わってゆくごとに。ほんとうに。
“声”をほどくというのは、思っている以上に大切なことだと感じます。
わたしも次回も参加する予定です。よろしければぜひご一緒に*
そしてここのところのさまざまがひと息ついたお疲れさまもかねて、朗読教室に参加された友人と、その日の午後は甘いものを。
白い月のパンケーキ。
やさしく解けた一日。
2026/04/12
「いつか桜も薔薇になるのでしょう」
薔薇は桜の未来形、という言葉を『月の片翅』という本のなかで綴っているのですが、読んでくださったかたから「いつか桜も薔薇になるのでしょう」といって、桜の花びらみたいな色とおおきさの薔薇を贈っていただいた。
その花びらが蝶の翅みたいにも、わたしには感じられた。
とても嬉しかったこと。
このちいさな薔薇は、日毎すこしずつ色が淡くなってゆくのだということで、花が開いたばかりのときはピンクの輪郭がはっきりしている色あいのようだけれど、わたしのもとにやってきてくれたとき、この国に生まれて「桜」といえばこの色だという色、そのものの色をしていた。
一夜明け、それがもとの姿に戻ってゆくみたいに、またわずかに白に近づいている。それは「雪に還る」ということであるのかもしれないな、と。
硝子でできた花々を鑑賞してきたばかりなので、そこから一輪いただいてきたのでは、と錯覚してしまいそうなほど、あわく、しなやかで、うつくしい。
2026/04/08
『月の片翅』をよむ【満席】
大勢待なつみさんの朗読教室
『月の片翅』をよむ
*
小平にある植物の本屋さん、草舟あんとす号で開催される朗読家・書籍修復家の大勢待なつみさんの朗読教室のなかで、津木野由芽の『月の片翅』をテキストとして使っていただくことになりました。
大勢待さんよりお声がけいただいたときは、驚きとともにとても嬉しく、声という筒をとおして言葉を外に放つことで、そこにある“意味”を超え、それぞれの“音”に心を澄ませる――そのような魅力を朗読に感じてきましたので、わたし自身もこのような機会をとおして、自分の“声”とともにつながる“音”に澄ますひとときをもちたいと、ぜひ参加したく思っております*
朗読教室の受付 ▷こちらから大勢待さんの言葉をとおして朗読についてのこと、当日の流れ、今回のテキストの全文をお読みいただけます。
春夏秋冬にわけて開催される予定のようですが、それぞれ単発でご参加可能となっています〇
holy gardenという場、即興であらわれるもの、それぞれの“声”より放たれ、紡がれ、綾なされる色は、その都度異なるものを見せてくれると思います。
第1回の春は4/19(日)10:00-11:30より草舟あんとす号にて
access 東京都小平市小川町2-2051 JR武蔵野線「新小平駅」より徒歩6~8分、西武国分寺線「小川駅」より徒歩10分(駐車場あり)
日曜日の朝、holy gardenでみずからの“音”に心を傾けるひとときを*
2026/04/06
草舟あんとす号さんへ追納いたしました
草舟あんとす号さんに『月の片翅』を追納いたしました。
白い表紙は角度を傾けると蝶が鱗粉を――魔法の粉を翅からふりまいているみたいに煌めき、同時にそれは陽に反射する雪の光のようでもあって、やはりこれは雪と桜のものがたりなのだと感じつつ。
(『月の片翅』 装丁、挿画 yukane)
また、おなじく『天の花 地の星』も草舟あんとす号さんに再納品いたしました。
最近あたらしく、このちいさな本の言葉に触れられたかた、以前にお読みになられたかたからのご感想をお聞かせいただく機会がいくつも重なり、嬉しく思っています。
ありがとうございます*
『天の花 地の星』については、よろしければあわせてこちらもお読みください。
(『天の花 地の星』 挿画 harumie)
どちらの本も、店頭、通販にておもとめいただけます。
月の片翅
天の花 地の星
2026/03/31
常磐
片翅の泉、余談として。
今日、草舟あんとす号のご店主から、「祭祀のような展示だった」という言葉をかけていただいて、「祭祀といわれれば、たしかに準備期間は舞を舞うための準備で、展示では舞を披露したのかもしれません」とお返事しました。
はからずも審神者の役割をしてくれていたのだろうご店主からも、鏡あわせの舞の相手であったyukaneさんからもたくさんのものを授けられて、おおきな成長の機会をいただいた展示だったと思います。
よりわたしの本質に基づく“舞”を舞うために、言葉と向きあえた時間は宝物。
いつか誰かが「舞は“まことの愛”を略したもの」なのだといっていたことを覚えていて、真実はさておき、その感性をわたしは美しいと感じました。
それぞれの領域と呼吸で、さらに自分自身の舞を舞ってゆけますようにと祈りつつ。
写真は片翅の泉からわたしのもとにやってきてくれた、yukaneさんの『常磐』
この絵のことを、つい昨日お話したあるかたが「変わらないものの意味をもつ常磐と、一瞬で散る桜をあわせもつ絵」といっていて、なるほどと感じながら、この常磐にずっとイワナガヒメを感じてきたけれど、桜としてコノハナノサクヤヒメもいてくれること。
結び目でふたつがひとつになっているから、絵のなかで“片翅”ずつの統合がおこなわれていているのだということに気づいて。
わたしがこれから自分自身の“舞”を舞ってゆくために、力となってくれる絵だと感じています。
終わってみればあっという間だった『片翅の泉』、ほんとうに得難い経験でした。
2026/03/30
片翅の裏側で
草舟あんとす号で開催されました『片翅の泉』展は、表には見えない裏側で起きたさまざまなエッセンスが「見えないけれどある」新月みたいに凝縮されていた展示でしたが、わたしにとってはひとつのおおきな通過儀礼というか、祝祭というか、そこに至るまでに達成する必要のあることがいくつもあり、過去にもここで綴ったことではありますが、今年のはじめに訪れた泉で蝶の器の翅が“割れて”「片翅」になったのは、そのまえの「完了」としての合図でした。
会期中にもほんとうにいろいろなことが動き、起きて、展示の合間を縫って足を運んだ場所はどこも片翅の泉が開かれているあいだ、それが閉じたあと、そして開かれるまえに渡っても、“泉”とつながっていた場所でした。
長い展示準備の期間におとずれた、はじまりの泉も、星の泉も、雪と桜の湖も、天の梯子がかかる橋も、竜宮のごとき海も、月の泉も、すべて。
これでほんとうに、「つぎ」へむかうときなのだな、という実感を深くしています。
片翅の泉のためにつくっていただいた、コナフェさんのケーキ。
いま思うとそれは、「常盤桜」のケーキだったのだと思います。
このケーキは展示のために寄せたものがたり、『月の片翅』に登場するケーキを意識してつくっていただいたのですが、薔薇を散らすのはむつかしいからプリムラを薔薇のはなびらに見立てて、とご提案いただいたときには知らなかったこと、「常盤桜」という桜が江戸時代の桜花譜にあると聞き、それはいまでいうプリムラの一種であること。そしてそれはわたしにとって、大切な“桜”ともつながること。
このたびの展示でyukaneさんが描かれた『常磐』のこと。
“すべてのための”メディスン――自身の目の届かない人や場所もふくめて、世界が穏やかでやさしくあるように、そしてわたしもそうであるように、という祈りの“メディスン” としてつくっていただいたケーキ。
去年、おなじ時期にやはりコナフェさんにケーキをつくっていただいたことがあり、これはあるかたのお祝いのためのものだったのですけれども、同時にわたし自身の祝いでもあり、そこにもふたつの蝶が飛んでいてつながりを感じていたのですが、会期初日にいただいた双子の薔薇にそう感じたように、このケーキたちも雪と桜の姉妹のようだと。
わたしが受けとったもの、受けとってきたもの、感じていること、感じてきたことを、そのまま正確に文章として書き起こすのはむつかしいことです。
けれども、春分の日、そしてそのまえの新月を挟んだこの展示は、とても特別なものでした。
今年の新月の日、3月19日は、『月の片翅』の双子、雪と桜の、新月と満月の双子の誕生日でもあったのですが、つぎに巡ってくる満月はピンクムーンと呼ばれることに、今日気づきました。
桜の色をまとった満月、そしてそのあとのイースター。
この展示をとおして、たくさんの恩恵をいただきました。その一部は深くに浸透して、まだわたしの意識にのぼっていないものもふくめて。
そして、お運びくださったかた、お心寄せてくださったかたも、その“魔法”をご一緒してくださったことを知っています。
ともに“泉”をひらく鍵の片翅ずつを渡し、また渡してくださったyukaneさんと、ずっと見守ってくださった草舟あんとす号のご店主であるえりさん、holy garden。
準備をお手伝いくださったかた、さまざまな旅をともにしたひとたち、家族、“新月”の領域にあること。
ようやくここまできたという気持ちとともに、わたしひとりではおそらく来れなかったところでもあることも、よくわかっています。おおきな感謝を。
すべてのためのメディスン。
心から。
言葉にするのはむつかしいことなので、おそらく読んで「わかる」という文章ではないと思います。
でも、綴っておきたいと感じました。
そのうえでなにか共鳴してくださるかたがいるのなら、それはとても幸運で、しあわせなことです。
(絵 yukane『常磐』)
holy garden
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